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『水中の哲学者たち』を読みながら― とりあえず徒然なるままに ―

11 時間前
読了時間: 3分

この本を読んでいる途中だけど。


先日、本屋に行って平積みの本を見ていたら、なんとなく「哲学者」という文字が目に入ってきた。


最近「哲学」に惹かれる。といっても活字を読むのが苦手な私は、もっぱらYouTubeで哲学を語る人のチャンネルを時々聞くぐらいで、知識は全くない。


でもこの本のタイトル「水中の哲学者」という、若干意味不明というか、???が並ぶタイトルと、水色と白の表紙がなにか心地よくて、すぐに手を取った。


私はすぐに目次を見るタイプ。


目次を見て一気に、あ、これ読みたいと思った。


なんともシンプルな目次の羅列。


「飛ぶ」「ガシャン」「ぜんぜんわからない」「おろおろ」


私の好きな擬態語や、感情などのシンプルな目次のみ。

これはかなりそそられる。もう、これだけで買いとなった。


色々読みながら、ところどころ笑ったり、反応したところに線を引きながら読んだ。

なんというか、この著者の繊細な心を覗き込んでいるような気分で読む本。

でもどこか柔らかくて、心地いい。


59ページは一気に共感したのか、安堵したのか、あるいは以前感じた安堵を思い出したのか、私は赤線を引いて、さらに鉤括弧までしてしまった。


「対話が居心地の悪い同調や、いたたまれない孤独に包まれているとき、わたしは願う。もっともっとバラバラになろう。バラバラになって、ちゃんと絶望しよう。もともと世界はいつだって、多様で、複雑で、曖昧で、不確実だ。その意味で私たちはみんなみじめで、みんな平等にひとりぼっちだ。

でもだからこそ、わたしたちは困ったねえ、と笑いながらカフェオレを飲むことができる。」


私は、この著者が他のところにも書いていた

「あなたとは完全にわかりあえないことに絶望する。... だが、そうだとしてもわかりあおうとしたい、とわたしは願う。」

に深く共感した。


私のことは誰にもわかるはずがないし、私があなたのことを完全にわかるはずもない。


そう思うと、人は結局ひとりなのだと思う。


私は物心ついた頃から、「私はここに属しているのだろうか」「私の居場所はどこなのだろうか」という問いを、どこかに持っていたように思う。

学校でも、なぜ私は人と違うことを考えるのだろう、なぜ人と同じであることが「正解」になるのだろう、と感じることがあった。

アメリカに来ても私は異質で、日本に帰ってきても、やっぱりどこか異質。

長い間、それは自分だけなのだと思っていた。


でも大人になって、勇気を出して友人に聞いてみたら、彼女もまた「どこにも属さない」という感覚を持っていると言った。


ああ、私だけではないのか、と安堵した。


そして私はこの仕事をしながら、基本的に「あなたのことは私にはわからないから、教えてね」という前提で人と向き合っている。

もちろん推測はするし、「ああ、こういう気持ちなのだろうか」と感じたりもする。そして「あなたのことをわかりたい」と思う。


でもクライエント自身も自分のことがわからない時もある。


「わからないね。私もわからないわ」


と言いながら、とりあえず一緒にいる。


ときには、


「”わからない”に、ちょっと降伏してみよう」


とさえ言う。


何か「見えた、わかった」ように思えても、また謎や闇や迷路の中に入り込み、世界がもやっとして感じられる。自分の内側もわしゃわしゃとなる。


こういう感じは、自分が馬鹿だからなんだろうかと思ったりもしていた。


でもこの本の、


「多様で、複雑で、曖昧で、不確実だ」


という言い切りが、この世界の中での居場所を与えてくれたように感じた。


「みんな平等にひとりぼっち」なんだ。


そしてやっぱり、「わかりあえない絶望」はしっかりとあるんだ。


それが事実なのか、ひとつの考え方なのかはわからない。

でも私は、この著者の言葉になぜか安堵した。

それでも、どこかの瞬間になにか「あなたと出逢う」という感覚になることがある。


そういう瞬間を、私は大事にしたいんだなと思った。

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