『水中の哲学者たち』を読みながら― とりあえず徒然なるままに ―
この本を読んでいる途中だけど。
先日、本屋に行って平積みの本を見ていたら、なんとなく「哲学者」という文字が目に入ってきた。
最近「哲学」に惹かれる。といっても活字を読むのが苦手な私は、もっぱらYouTubeで哲学を語る人のチャンネルを時々聞くぐらいで、知識は全くない。
でもこの本のタイトル「水中の哲学者」という、若干意味不明というか、???が並ぶタイトルと、水色と白の表紙がなにか心地よくて、すぐに手を取った。
私はすぐに目次を見るタイプ。
目次を見て一気に、あ、これ読みたいと思った。
なんともシンプルな目次の羅列。
「飛ぶ」「ガシャン」「ぜんぜんわからない」「おろおろ」
私の好きな擬態語や、感情などのシンプルな目次のみ。
これはかなりそそられる。もう、これだけで買いとなった。
色々読みながら、ところどころ笑ったり、反応したところに線を引きながら読んだ。
なんというか、この著者の繊細な心を覗き込んでいるような気分で読む本。
でもどこか柔らかくて、心地いい。
59ページは一気に共感したのか、安堵したのか、あるいは以前感じた安堵を思い出したのか、私は赤線を引いて、さらに鉤括弧までしてしまった。
「対話が居心地の悪い同調や、いたたまれない孤独に包まれているとき、わたしは願う。もっともっとバラバラになろう。バラバラになって、ちゃんと絶望しよう。もともと世界はいつだって、多様で、複雑で、曖昧で、不確実だ。その意味で私たちはみんなみじめで、みんな平等にひとりぼっちだ。
でもだからこそ、わたしたちは困ったねえ、と笑いながらカフェオレを飲むことができる。」
私は、この著者が他のところにも書いていた
「あなたとは完全にわかりあえないことに絶望する。... だが、そうだとしてもわかりあおうとしたい、とわたしは願う。」
に深く共感した。
私のことは誰にもわかるはずがないし、私があなたのことを完全にわかるはずもない。
そう思うと、人は結局ひとりなのだと思う。
私は物心ついた頃から、「私はここに属しているのだろうか」「私の居場所はどこなのだろうか」という問いを、どこかに持っていたように思う。
学校でも、なぜ私は人と違うことを考えるのだろう、なぜ人と同じであることが「正解」になるのだろう、と感じることがあった。
アメリカに来ても私は異質で、日本に帰ってきても、やっぱりどこか異質。
長い間、それは自分だけなのだと思っていた。
でも大人になって、勇気を出して友人に聞いてみたら、彼女もまた「どこにも属さない」という感覚を持っていると言った。
ああ、私だけではないのか、と安堵した。
そして私はこの仕事をしながら、基本的に「あなたのことは私にはわからないから、教えてね」という前提で人と向き合っている。
もちろん推測はするし、「ああ、こういう気持ちなのだろうか」と感じたりもする。そして「あなたのことをわかりたい」と思う。
でもクライエント自身も自分のことがわからない時もある。
「わからないね。私もわからないわ」
と言いながら、とりあえず一緒にいる。
ときには、
「”わからない”に、ちょっと降伏してみよう」
とさえ言う。
何か「見えた、わかった」ように思えても、また謎や闇や迷路の中に入り込み、世界がもやっとして感じられる。自分の内側もわしゃわしゃとなる。
こういう感じは、自分が馬鹿だからなんだろうかと思ったりもしていた。
でもこの本の、
「多様で、複雑で、曖昧で、不確実だ」
という言い切りが、この世界の中での居場所を与えてくれたように感じた。
「みんな平等にひとりぼっち」なんだ。
そしてやっぱり、「わかりあえない絶望」はしっかりとあるんだ。
それが事実なのか、ひとつの考え方なのかはわからない。
でも私は、この著者の言葉になぜか安堵した。
それでも、どこかの瞬間になにか「あなたと出逢う」という感覚になることがある。
そういう瞬間を、私は大事にしたいんだなと思った。




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